カリカチュア

バタイユ至高性―呪われた部分 (普遍経済論の試み)
封建社会における王が至高者(君主)として絶対的な力を持っていた時代から、民衆やブルジョワジーが出現する近代へと移行するに至って、至高性も君主から個人(主体)へと移行していった。そこで個人は、労働することで自然を否定し事物を獲得する(ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法)。バタイユはこの事物を再び否定することで主体は至高性へと達することができると考える。その事物の乗り越えを可能にするのが死、エロティシズム、芸術、笑い、涙などである。
・・・ここまではバタイユの「至高性」に対する一般的な解釈。ここで注目すべき点は、バタイユ封建社会では当然であった「至高なもの」に対する追求が、現代の我々の眼には、それが「カリカチュア」として映ってしまい、尊厳的な対象が滑稽でコメディ的なものになったと考えているということ。言い換えると、カリカチュアとなってしまったものがバタイユの主張する「卑劣なもの」。それは例えば、排泄の仕方、性の規則の守り方、贈与の仕方、衣服の着方、家の飾り方など。

今日では、人間の尊厳の追求、できる限り至高な尊厳に近く位置したいと望むような追求は、我々の眼には劇画(カリカチュア)と映っており、・・・(『至高性』)

カリカチュア・・・少し調べて見ると面白いかも。