解説してみる。1

■オリエ"Le Materialisme Dulaliste de Georges Bataille"章立て。

  • a)Eveil [目覚め]
  • b)Dualisme [二元論]
  • c)Le sacre et le profane [聖なるものと俗なるもの]
  • d)L'Homme [人間]

→以下においては、a),b)について簡単に説明(あまり説明になっていないのですが)

オリエはまず、これまでのあらゆる思考[pensee]が「善」に向かう一元論的なものだとして、これを否定する。このような思考は、もはや全く実際の経験に根ざしたものではない。それに対して、バタイユは、思考そのものを「目覚め」させ、これまでの超越的理性をもう一度問い直す。バタイユは常に激情の内で「生きた経験.:体験的経験」に到達しようとしたのだった――それによって「知ることsavoir」と「することfaire」が互いに混在し合い、未来が、あたかも現在が開かれていることで未来から溢れ出たかのように、またあたかもそれ[未来]が現在の漂流であり、もはや企てが望むような現在から逃れることがないかのように生じる」(オリエ)
バタイユはこの「生きた経験」を、二元論的唯物論によって説明する。しかしこれは善-悪が最終的に、意志によって善に回収されるような二項対立ではない。これらの対立は互いに侵犯し合うことで成立する、謂わば一元的な二元論である。そこで人間の「意志」や「選択」によって決定されていた善は、如何なる選択や「自由」をも与えることのない「誘惑」の善(つまり悪)となる。しかしここで注意しなければならないのは、悪が決して善を否定するのではなく、むしろ善を侵犯することで成立しているということ。そのため、悪は一瞬しか表れない。だがこの侵犯した悪がさらにもう一度悪を侵犯し善へと向かう、このような繰り返しのなかで我々は、悪を捉えることができる。そのもっとも顕著な例が「聖なるもの」と「俗なるもの」の関係なのである。

→主なバタイユ論のもとになる論文だといえる。これはバタイユの理論であって、これをそのまま『ドキュマン』やバタイユの視覚論使うのには無理がある。あくまで前提。前提。これに捉われすぎないこと。全くべつの視点が必要。やはりジェイ『伏目』をもう一度よむべし。