"Le Materialisme Dulaliste de Georges Bataille"c)聖なるものと俗なるもの Le sacre et le profane

オリエは、「俗なるもの」と「聖なるもの」を論じるに当たって、まず初めに二つの実在[l'existance]を提示する。一方は、聖なるものを超越的なものとして自己から切り離して生きる俗なる実在。他方は、内在性のうちに生きることで、如何なる分離も不可能な交感を行う聖なる実在。
これによって、俗なる実在は、聖なるものを禁止されたものとして排除し、思惟の世界を確立する。またこれは逆に聖なるものが、俗なるものから分離することによって定義されることをも意味している(簡単に言うと、図と地の関係のようなもの)。しかしそれは一見すると矛盾しているように思える。というのも分離不可能な聖なるものを分離することによって成立する俗なる世界とは果たして可能なのか、という疑問が起こるからだ。
これに対して、オリエは俗なる世界における「神」を具体例として挙げる。俗なる世界において、人は聖なるものに(言語によって)神という名を与え、それを人間的自己を保証する唯一のものとみなす。これによって人間は、神を対象として捉え、神を現前させることを可能にする。しかし、この神が聖なるものとして捉えられるや否や、神は俗なる世界はから排除され、それによって人間は神の不在[神の現前の不在]に直面する(聖なる世界においては、逆に神の不在の現前となる)。
供儀は聖なるものの俗化、俗なるものの聖化として、人間に「現前する神」、「不在の神」を接近可能なものにする。供儀によって人間は神を殺し神聖なものにする。なぜなら死によって人間[人間自身も模擬的に死ぬ]は神の不在に接近することができる。それゆえ、俗なる世界の初めの状態とは反対に、聖なるものは、俗なるもの以外の何ものでもなく、それは俗なるものの変形[altération]でしかない。
したがって、聖なるものと俗なるものは、〈善〉〈悪〉二つの世界と同じように、それぞれが対立しあうのではなく、二つの世界として同じ行程に建てられる。

→原理的には〈善〉〈悪〉のあり方と同じ。さらに神と供儀によって聖−俗、善−悪を説明しようとするものだといえる。
■ここからどうしようか?まだ何にも思いつかないな。
ニーチェ善悪の彼岸』第三書終了。これかなり長いよ・・・これもどーしようか。ゼミ発表には役立ちそうにないような・・・。