フォト=ショック

shirime2004-12-15

■『自我論』を読み進める。少し寄り道。「快感原則の彼岸」においてフロイトは、戦争神経症や列車衝突などの事故における外傷神経症について、それが驚愕(=choc??)と不意打ちによる反復強迫によるものだと主張する。これは不快を排除し快を獲得する快感原則よりもさらに根源的に独立したもの。
→おそらくバルトが「写真のメッセージ」において主張する「精神的外傷(トラウマ)のイメージ」とはこのことではないだろうか?

トラウマ性の写真(火事、難破、大災害、不慮の死など《現場で》撮ったもの)は、何も言うべき事はない写真である。フォト=ショックは構造上無意味である。どのような価値、どのような知、極端に言えばどのような言語的カテゴリー化も意味作用の制度的状態に影響力を持ち得ない。(バルト)

しかしこれでは、バルトが前文で述べている「…写真においてトラウマは、シーンが現実に起こったのだという確信に完全に従属している…」ということの説明はできていない。バルトはトラウマに関してはフロイトに従いつつ、その議論を写真に適用させている。そのためおそらく、トラウマ写真についてはもうひと捻り必要…。


■写真:『ドキュマン』1929年no.4レリス、バタイユ他論文「眼」に掲載された写真のひとつ。