shirime2005-01-19

エミール・バンヴェニスト"Le Langage et L'experience Humaine"を読む。
→彼にとって問題なのは、ディスクールの審級(l'instance de discours)のなかにおいて、常に生きられた時間を体験している私〈je〉があなた〈tu〉との関係によって、主体性をいかに獲得していくかということ。それに対して彼は語り〈parole〉の審級の中で唯一〈je〉は〈je/tu〉の弁証法によって統一的な主体=間主体性を獲得すると結論づける。

ディスクールの時間は、通時的時間の分割に陥いられるものでも、独我論的な主体性の中に閉じこめられるものでもない。それは、間主観性の要因として…作用する。この間主体性の条件こそが唯一言語的なコミュニケーションを可能にする。

ところでこの弁証法とは、〈低い唯物論〉を主張するバタイユが最も斥けようとした観念論的方法のひとつである。特にバタイユは、この弁証法のモデルを形態の弁証法のなかで考えている。彼は「自然の逸脱」(『ドキュマン』1930,no.3)のなかで次のように述べる。

形態の弁証法が問題になり得るとするならば、ある種の逸脱、議論の余地無く自然に責任のある逸脱を、まずもって考慮せねばならないことは明らかである。

ここで逸脱とは異形なもの、不調和なものを意味している。バタイユにとってその異形は、よりすぐれた形態や完全な調和のとれたものへと成り得ない、つまり形態の弁証法に陥らないものと考えている。(バタイユはこの具体例としてガルトンの合成写真を例に挙げている。)
ではバタイユの理論に従えばバンヴェニストの言語論とは、単なる観念論なのかという疑問がわいてくるのだが、決してそうではないと思う。だから一義的に弁証法ヘーゲル的観念論という考え方よりも、もう少し多義的に考えていく必要がある。つまりバタイユにとって弁証法とは単に否定されるべきものだったのかということが問題。