独り言2

■集中2日目
広告の文法。広告の文法として挙げられるもののひとつに、「商品と他のイメージの空間的並置」がある。これは広告以前にダダやシュルレアリスムのフォト・モンタージュやコラージュの用いてきた方法。両者は共に現実の合理的・因果的に成立している意味体系を一度解体し、イメージの断片を並置することで新たなイメージ(意味体系)を構築する。
だがここで『現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)』では、広告が商品を中心に一義的に新しいイメージが形成されるのに対して、ダダなどのフォトモンタージュが意味の拡散、増殖、中心からの解放であり、そのイメージは、読むものにとって多義的であり、一義的に決定することができないと規定する(p189)。しかし反論として言うと、これらは同様に既成のイメージを解体し、もうひとつの新しいイメージを構築しているということができないか?つまり共に新たな一義的なイメージを再構築したと言うことができないのか?というのも確かに広告イメージでは、商品それ自体の発話行為によって新しいイメージが商品を中心として形成される。しかしダダなどのフォトモンタージュにおいても、新たなイデオロギーを伝達するという方法によって新たな一義的イメージが形成されているということができるのではないか。(広告が「既成の感性コード」に訴えるのに対して、ダダなどのフォトモンタージュは「歴史的コード」に訴える。)つまり両者は空間の並置によってそれぞれ「商品」、「新たなイデオロギー」を獲得する。しかしそれらには決定的な差異がある。それは広告においては、空間的並置が常に商品に回収されるのに対し、フォトモンタージュでは既成のイデオロギーとは異なる新たなイデオロギーに回収されるということにある。そのため広告では如何なるシニフィエにも至ることなく常に(商品という)シニフィアンのレベルに留まる、外示的(デノテーション)イメージであるのに対して、フォトモンタージュは、新たなシニフィエのへと向かう、共示的(コノテーション)イメージになる。これが二つのモンタージュの決定的な差異ではないだろうか。
…かなり強引ですかねぇ??