・・・最近呟いてばかり

■集中最終日
昨日の独り言に対するひとつの答えが見えたような気がする。仮にダダのフォトモンタージュがある一義的な方向性を持っていたとしても、そのイメージに含まれる非論理的系結合そのものは、全く「僕にとって」は全く一義的に理解可能なものとはならない。つまり単に歴史的コードでイメージを読んだとしても、「それって全く自分にとって面白くないよ」ってこと、それはレトリックに過ぎないだけ。問題は、僕がそのイメージを見ているということ。いくら僕がダダのフォトモンタージュに論理的必然性を見出したところで、それはダダが目指したものとは全く別もの。なぜなら彼らは、そのイメージそのものをフィクションとして提示しようとしたのだから。
僕がバタイユに興味を示したのも、恐らくこんな感じからかもしれない。僕にとってバタイユの言説や彼の示すイメージは、「なんだかわからないけど、気持ち悪くて面白そう」ぐらいのものだった。そのような感情を今は全く忘れていまい、そこに論理的必然性があるはずだとかたくなに信じて追求してきたような気がする。バタイユの美学を完全に論理的に分類したら、それは全くバタイユではなくなってしまう。バタイユバタイユ。ただそれだけ。
結局重要なことは、僕にとってそれが面白いか、面白くないかということ。(あまり説明になってないと思いますが、言いたいのはそれだけです。)以上。