解説してみる。2

■オリエ"Le Materialisme Dulaliste de Georges Bataille"のa)「目覚め」をもう一度説明。読書会のおかげ。感謝感謝。id:shirime:20050420の説明はかなり怪しい。

オリエは、まずバタイユの論文「神聖なものと悪の結びつき」に基づいて、これまで日の光によって眠らされていた思考[=明晰・判明な思考]そのものを「目覚めさせる」。これまで思考は、盲目的に〈善〉や未来へと指向する道徳に基づいて規定され、その中で人はその道徳を「行いfaire」、決してその道徳や思惟そのものを「知るsavoir」ことはなかった。
対して「思考の目覚め」とは、決してそのような道徳を「行う」ことではなく、思惟そのものを「知り」、「道徳であるところの思惟の実践」を宙吊りにする[suspendre]ものなのである。そのため、バタイユは、善−悪の対立もこのような道徳的欲求の中から生み出されたものとして考える(このような善−悪に対する考え方は、ニーチェ(『善悪の彼岸』)を受け継いでいる)
この「目覚め」をバタイユの二元論的唯物論によって説明する。そのため、オリエはそれぞれの項を「道徳的欲求」と「道徳」との対立に基づいて、明確に分類する。(下記参照)

  • 夜 :思惟の目覚め[evil]――昼:目覚めという夢
  • 道徳的要求――――――道徳の実践
  • 思惟の実践の宙吊り――――盲目的な善への指向
  • 善がそうであることを知る[savoir]―――善を行う[faire]
  • 善悪の彼岸、道徳的要求――――道徳(善を行う)
  • 現実実在の諸要素―――弁証法的発展の諸項
  • 現実化された思惟―――思惟された現実

          


さらに、このような各々設定された対立項は、バタイユの主張する「現実の弁証法」によって「生きた体験」として総合される。バタイユは常に激情の内で――「知ることsavoir」と「することfaire」が互いに混在し、未来が、あたかも現在が開かれていることで未来から溢れ出たかのように、またあたかもそれが現在の漂流であり、もはや企てが望むような現在から逃れることがないかのように生じる―「生きた経験l'experience vecu」に到達しようとしたのだった。生きた経験とは、「弁証法的発展の諸項」と「現実存在l’existance reelleの諸要素」を、つまり思惟された現実と同時に現実化された思惟を結ぶものなのである。」(オリエ)
簡単に言うと、それは「知ることsavoir」と「することfaire」の総合[弁証法]、理論と実践の弁証法だということができる。

→「現実の弁証法」については、さらに後で語られているはず。でないと、よく分からん。
ユベルマンはこのようなオリエが語る「現実の弁証法」に対して議論しているはず。確かよく分からないまま終わったような記憶がある。
参考:Georges Didi-Huberman, La ressemblance informe, ou, Le gai savoir visuelselon Georges Bataille (1995)