バタイユとforce。

ニーチェニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)』終了。なげぇ。次『ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)
→『権力への意志Der Wille zur Macht』において、二ーチェは、「権力[Macht]への意志」*1を二つの方向によって既定する。その一方は、生命を下降させる「真の世界」、「偽られた世界」、他方は生命を上昇させる「非道徳の世界」(401)。ニーチェにとって重要だったのは、後者であり、それは言うなら生[Leben]そのもの、「超人」、「ディオニソス」的なものと言うことができる。
『権力の意志』はフランス語に訳すと"La Volonte de puissance"。バタイユは、ニーチェに従いながらも、このような権力=Macht=puissance*2を決して認めることはなかった。バタイユは、生命体の個体性に作用するニーチェの力=権力よりをもforce*3=力を重視することで、ニーチェを乗り越えようとした。

私に言わせれば、「権力への意志」は…、ひとつの後戻りを意味している。もしも私が、「権力への意志」に従ったとすると、私は存在を隷属的な部分に変える、あの断片化へと戻っていくだろう。私は再び義務を背負うことになり、私の意欲する「力=puissance」、善が私を支配することになるだろう。(バタイユ『好運への意志』序文)

それに対して、バタイユとって力=forceとは、決して理性を介さず、一貫性を持たない矛盾し無秩序な力である。このような決定不可能な力を基にして、「好運」、「非-知」、「内的体験」、「笑い」など彼の思想ともいうべきものを語っていく。
→つまり簡単に言うと、バタイユにとって「権力への意志」は、「好運への意志」として捉えられたということ。(しかし、バタイユは、決してニーチェを否定しているわけではない。バタイユは、ニーチェの内にも力=forceを見出している。参考『この人を見よ (岩波文庫)』)
バタイユの参考文献:『ニーチェについて―好運への意志 (無神学大全)

*1:Machatをmogenから由来する「可能性Moglichkeit」と関連して考える必要がある。またKraftとも区別する。

*2:puissanceの語源はpouvir[できる]と同じ。つまり、ある意味人間に内在した潜在的な力と言うことができる。

*3:forceの語源は、forcer[強いる]と同じ。そのため、何らかの外的な力、偶然的な力と言うことができる。