"Le Materialisme Dulaliste de Georges Bataille"のb)二元論の要約

【要約】
この段落では、「生きた体験」に対する直接の言及はないものの、「現実の弁証法」の説明としてバタイユの二元論を取り上げる。バタイユにとってこの二元論とは、道徳における善−悪の対立などの「同じ世界の内にある二つの原理」として考えられるものではなく、それぞれ拮抗しあう「二つの世界」としてある。それと同時にこの二つの世界は各々独立して存在するのではなく、同じ道程[行程]で互いに侵犯する、ある意味一元論として存在している。
では、一体善−悪の二つの世界において、互いに侵犯しながらも「二つの世界」として存在するとはどういうことなのか?悪は決してそれ自身で存在することはできないし、意志が追求する善も決してそれ自体で自律して存在するものでもない。それとは逆に悪は、善を追求する意志が極限にまで高められ、もはや何も要求しなくなったときに、善そのものが侵犯されることによって獲得される。(まさに意志の不在によって、意志が侵犯されるのである。)オリエは、このような悪を「快の源泉」「善そのものによって誘惑された徳」「快の意識」「達成された善」としてとらえ、この「二つの世界」を一元的に考える。
このような侵犯は、「禁止の乗り越え」の瞬間、もうひとつは「罪の瞬間」に起こる。しかしながら、このような侵犯は、瞬間にしか起こらない。そのため、この侵犯を持続させるためには、善を侵犯した悪がさらにもう一度侵犯される。その繰り返しのなかで我々はその侵犯の瞬間を見ることができる。結局、悪とは、常に善を前提とし、それを追求することによって獲得されるもの、というのがこの章の論旨。
さらにc)において、このような侵犯の最もよき例として「聖なるもの」と「俗なるもの」が取り上げられる。

→簡単に言うと、この章では、まず初めに、善−悪の両義性が説明され、それを侵犯によって説明。さらに、侵犯をその持続によって説明する。結局侵犯とは、「二つの世界」であると同時に互いに侵犯的なものだということ。またこれは、人間の道徳的欲求によって獲得されたもの。