独り言3

ソンタグ『写真論』に悩む。確かに写真は、小説や絵画とは違ってヤコブソンの考えたような〈作者−作品−読者〉のような図式が成立しにくい。写真においては、その複製性のために、撮影者(オリジナル)はそれほど重要とはならない。ソンタグもこのことを認めている。しかしクラウスやソンタグが考えるような、写真=インデックスというような、写真の捉え方(「映像と対象物との部分的な同一性」(『写真論』p.160))は、現実性を作者の変わりに置き換えたに過ぎないのではないだろうか?つまり、結局はクラウスの議論(「シュルレアリスムの写真的条件」)は作者=現実性を絶対と考える、従来の作者(現実)中心的な解釈にすぎないと言うことができるのではないか?

      作者−作品−読者
      ↓   ↓
      現実−写真−読者

そのように考えると、写真のインデックスとは、その写真にある程度の現実を読み取ることができる写真、あるいは言語(キャプションなど)や他のコンテクスト(美術館など)によって現実を読み取らせる写真にしか言うことができないのではないか?
仮に何の説明(キャプション)もなく、何が映っているかよく分からない写真を見たときに、我々はその写真を「現実の断片化」、「世界の代理所有」(ソンタグ)、あるいは「代補〔supplement〕」「再現=表象としての現実reality as representation」(クラウス)ということができるのであろうか?何の説明もなく、フォトグラムなどの写真を提示されたとき、我々はそれを他の写真と同じように見ることができるのだろうか?
(・・・自分で何を書いているのか分からなくなってきたので、この辺で終了します。)


■とりあえず関学へ。
→サド研究者の授業へ。今日は春画の授業だった。