ジェフ・ウォールとバタイユ

shirime2005-09-03

■ジェフ・ウォール「破壊された部屋」(1978)
→この写真は、一見すると完全に破壊された部屋の無秩序なイメージが提示されているように見える。だが、この写真のフレームの位置は、部屋とシンメトリーになるように構成され、またそのカメラの視点は、観者がまるでスタジオセットを見ているかのような場所に置かれている。それによって、この写真は、ひとつの出来事(=物語??)を厳密にフレーム内に構成しているのである。
バタイユ眼球譚』と「見ること」

バタイユにとって、これまで一般的に受け入れられてきた「見ること」、あるいは「眼」は、何にもまして否定されるべきものであった。バタイユが1926年に出版したポルノグラフィックな物語『眼球譚』において、眼は完全に見るための機能を奪われてしまう。ロラン・バルトが言うように、 この眼の物語は、小説の登場人物についての物語ではなく、対象〔objet〕、つまり眼とその対象に起こることについての物語である。ここで眼は、ものを認識するという特権的な地位を奪われ、その形態と内容の類似によってあらゆる対象の隠喩と換喩の一機能として変形される[varier]。球体の要素として眼は、卵や睾丸、太陽として隠喩的に変形され、さらにこの丸くて白い眼球は、シモーヌのしゃがみこんでいるミルクプレートへと結び付けられる。それと同時に、流体を含んだ眼は、卵黄、小便、涙、精液へと換喩的に別の意味へと移行していく。また単に形態の隠喩だけではなく、couille〔睾丸〕のような語は、cul〔尻〕とoeil〔眼〕のアナグラムによる音韻的な結合関係によっても結び付けられる。これによってもはや、「見ることのない眼[l’œil qui ne voit pas]」 は、性器などの他のものと等価に扱われ、エロティックなアクションを生み出すひとつの要素として描かれたのである。

眼球譚(初稿) (河出文庫)

眼球譚(初稿) (河出文庫)