修論に向けて。

修論をそろそろ書かないといけないのに、先が全く見えない。今問題なのは、『ドキュマン』がどういうふうにして読まれたのかということ。これは民族誌と雑誌(テクスト/イメージ)の問題でもある。これを考えるためには、どうしてもカール・アインシュタインベンヤミンとの問題につながってくる。
→ひとまずアインシュタインの『ドキュマン』に関する文献に目を通すことに(『オクトーバー』107)