リーフェンシュタール

■昨日のゼミ。
リーフェンシュタールの映画の発表に関して問題となったのは、彼女の映画が政治的なもの/美的なものという二項対立をどう回避するかというもの。最近は二項対立と聞くと、ひとまず四角形に当てはめてみたくなる。そうすると以下のようになるのではないかと想像する。
S=『民族の祭典』

  • 「S1美的/S2政治的→ナチス
  • 「政治的/非政治的→プロパガンダ
  • 「美的/非美的→スペクタクル」
  • 「非美的/非政治的→ドキュメンタリー」

このように考えると、リーフェンシュタールの従来の「政治的/美的」という二項対立は、解消されるのではないかと思うのだが。つまり、今回の議論で抜けていたのは、「スペクタクル」と「ドキュメンタリー」という要素ではなかったのではないだろうか?
というのもこの『民族の祭典』という映画は、まずもってオリンピックというスペクタクル要素を含んだ記録映画であり、むしろ「美的/政治的」というような二項対立は、リーフェンシュタール自身の問題ではないかと考えられるからである。撮影のために競技をわざわざやり直したということもあるが、それでもやはり記録として撮影されているのは事実。