ひとまず読み終える。議論の軸は3つあるように思う。ひとつは犯罪の場所と対象の問題、ひとつは視覚の問題、そしてもうひとつがバタイユの空間の問題。この3つを絡めて議論しているからややこしいの。

概略1
まずヴィドラーが問題にするのは、犯罪現場における「場所=where」の問題。一般に犯罪捜査において常に問題となるのは証拠品、つまり「何=what」であり、そうした操作方法はある種の社会的法的な慣例に従っているものに過ぎないという。しかし、「何」という対象=証拠品は、その犯罪現場の場所を問題にすることによって、すぐにあいまいなものになってしまう。

その具体例として、ヴィドラーはバタイユの「X marks the spot」と題された書評に掲載された殺人現場の(証拠)写真を挙げる。証拠写真としてのこの写真には、シカゴのギャングが射殺されたイメージと氷に浮かんだ死体のイメージが掲載されている。それがこの写真。

ここでヴィドラーはユベルマンの議論を引き合いに出す(『不定形の類似』)。ユベルマンの議論に従えば、この写真イメージは、その混乱した場面のために、ある種の空間の異質性を生み出しているという。こうした写真イメージは、まずその自らの死の標識者として、次にその標を視覚的に解体するイメージとして観者に与えられる。それによって、このイメージは観者の視覚的認識を混乱させることになる。そのため、常に都市生活の中で排除されてきた死の場所=Xは、その場所の性質や印を明らかにすることができる。

さらにこの死の場所=Xは、バタイユにとって「モニュメンタルなもの」と同じものとなる。それがコンコルド広場のオベリスクなのである。

ひとまずこんなところ。