反省その2

修論:反省その2
・クラウス「シュルレアリスムの写真的条件」
シュルレアリスム写真を、ボワファールの写真だけで片付けてしまうのには問題がある。クラウスの記号論的分析は、それぞれの写真のコンテクスを認識した上で分析しているのであり、それをもう一度コンテクストに返すためには、バッチェンのパース論(デリダ論)に依拠するだけでは物足りない。バッチェンの主張するように、確かに写真とは「再現=表象としての現実」ではなく、単に「再現=表象の現実」として考えることができる。しかし、「再現=表象としての現実」、あるいはシミュラークルとして写真が機能していたというクラウスの主張は、当時の写真の役割というコンテクストに基づいたものであるということもできる。
またボワファールの写真以外のシュルレアリスム写真、とくにマン・レイのソラリゼーションのような写真は、バッチェンの「再現=表象の現実」としてかたづけることもできないような気がする。というのも、この写真では、他の写真方法とは異なってフレーミングによってシュルレアリスム的イメージが生み出されたとはいえないからである。ネガ/ポジを反転させたソラリゼーションという方法はむしろそれ以上に、「再現=表象としての現実」として機能ていたと考えることもできるのではないだろうか。…とかとか考えてみるものの、それぞれに対する答えはまだない。
■探し物
23.『岩波講座 都市の再生を考える1 都市とは何か』共著(「場所と空間 先行形態論」p.67-100)、岩波書店、2005年3月25日、中谷他8人、A5版、pp.233