シュルレアリスムにおける全体性

shirime2006-12-01

■当時の状況がどうであったのかは知らないが、シュルレアリストたちは多くの証明写真(photomatons)を撮影している。また同じように多くの集団肖像画のような写真もある。とくにブルトンの場合は、写真だけでなく、絵画などの肖像画など異常なほどよく目にするように思う。
シュルレアリスム革命」にはこれらの肖像写真がモンタージュされて、雑誌紙面に配置されている。
 
何の意味があるのかもう一度よく考えてみる。
■メモ
ブルトンを中心とするシュルレアリスムは、サルトル以後展開される(フランス)マルクス主義的全体性以前に、ヘーゲル弁証法を基礎として別の形で全体性を展開している。その方法として、彼らは、フロイトの「夢判断」をもとにして、合理的なものと非合理なもの、正気と狂気、意識と無意識を非合理に結びつけることによって、内在的な統一性を獲得しようとした。しかし、シュルレアリストたちが展開した全体性概念は、二つの点でヘーゲルのそれとは異なっていた。
第一に、合理主義的なロゴス中心主義の拒否(『大論理学』など)。その方法は、言語に基づく論理的なものではなく、反対に合理的なものと非合理なものが同一レベルで融合することにある。その実践が自動記述である。第二に、その実践的な方法として、シュルレアリスムは、ヘーゲル的な弁証法における媒介作用よりも、無関係なものの無媒介的に並置することによって、全体的統一性を獲得する。つまりそれが、「解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の偶然的な出会い」という言葉が示すコラージュの実践。