モンタージュされる身体

イメージによって表象された身体は、何らかの指示対象としてのオリジナルの対象がある。写真のインデックス性とは、まさにこうしたイメージ/レフェラントの密接な関係をよく示している。クラウスのインデックス論もこうした写真の特性を基にして展開されており、また多くの論者がこれを引用している。しかし注意しなければならないのは、それは結局のところイメージでしかなく、何ら現実を保証するものでもないということ。そのことを無視して、イメージに対してフェティッシュになり、イメージこそが〈実在〉を保証するという逆転が起こっている。
(後輩に言われたのだが)街角に見るベネトンの広告ポスター(様々な人種の人たちが証明写真のようにバストショットで撮影されているやつ)もよく似ている。その顔写真は、世界にはいろんな人種がおり、またカラーも様々なのだから、このイメージはあなたそのものだと観客に呼びかけるのである。

対照的に、澤田知子のIDシリーズとは、まさにこうしたイメージのフェティシズムの逆接を利用している。つまり、主体を複数化することによって、イメージによって支持される自己=IDを現実の主体さえをも複数化できるものとして呈示しているのである。


画像は、ミシェル・ゴンドリーによるギャップのCM。警察のモンタージュと同じように、複数の主体が最終的には、一人の人間へとモンタージュされる。それによって客は、鏡像的にイメージ上の身体に自己を同一化する。

■講読
次はフォスターの「subversive signs」を読む予定。