クローネンバーグ監督の作品。
原作の『蝿(はえ) (異色作家短篇集)』(ジョルジュ ランジュラン)の冒頭で

電話と電話のベルは常に私をいらだたせる。

とあるように、この物語では電話がメタファーとなっている。よく知られているように、実際の物体が解体されがひとつの(電話)ボックスから別のボックスへ転送されるというのは、電話の送信/受信と同じ。そこにノイズとして介入してくるのがハエであり、それによって受信が妨害される。つまり転送された人間がハエ男となる。ただしクローネンバーグの作品では、そのノイズ=ハエはすぐに現れずに、徐々に人間の肉体を侵していく。この映画では(DNAの構造変化)肉体の漸進的な変化の過程に焦点が当てられている。それと気になったのは、電話が他者の介入であるにもかかわらず、この物語(映画も小説も)には、他者というのがほとんどでてこないということ。物語は、ほとんどひとつの部屋のなかでしか展開されない。ハエってどこにでも出没するはずなのに少し期待はずれだった。