視文研

■視文研
アメリカのアクションペインティングという芸術が資本主義的なイデオロギーの被害者であるというよりも、むしろ共謀的な関係であるならば、それを自覚した上でどう芸術を展開していったのかということがこれからの問題。そこで重要なのが、デ・クーニングが参照したといわれる超資本主義的な産物であるピンナップガールだろう。
フォトモンタージュに関しては、当時の文化の雑誌が色々見れてよかったが、ピカビアの位置づけがあいまいだったことは否めない。ただダダが非芸術的な芸術として祭り上げられているのを、当時のメディア文化と同じ次元で論じるのはよかったと思う。ついでに、送り手/受け手の話も出ていたが、それをあまり重要視しすぎると、ダダという運動を芸術/非芸術(大衆文化のメディア)としてまた分離する羽目になるように思った。
■zombify
という動詞があるのをはじめて知った。be zombifed【=気力を奪われる】という意味らしい。
フランケンシュタインでは、モンスターは外部社会へと放たれて人間とは完全に切り離される。また『ジキルとハイド』では、ハイドがもう一人の他者として自己の内部にとりつく。その双方のどちらも、人間/モンスター、内部/外部の境界は厳密に守られている(ハイドもジキルの中にしか生まれない)。それに対して、ゾンビは、人間から排除されたモンスターであるにも関わらず、一度噛まれてしまえば、人間=モンスターとなる。簡単に二つの境界が侵犯される。そういう意味で、be zombifedなんだろうか。
ついでになんでゾンビは血が出るのかも気になる。