エログロ・ナンセンス=バタイユ

70年代80年代、恐らく『眼球譚』とか『太陽肛門』とかを挙げて、バタイユはサドと同じように、エログロ・ナンセンスの権化みたいな存在とみなされていたようだが、その起源て結局どこにあるのかよくわからん。ということで、久しぶりに澁澤龍彦を読み返している。一つだけわかったこと、ここにはエログロ・ナンセンスなんてない。もっとラディカルだった。サド裁判の10年後、澁澤は、当時を振り返って、サド自身の猥褻さの衝撃自体を認めながらも、猥褻性そのものを追求する世界あるいは、猥褻性を完全に排除した世界が、どちらも同じように、ユートピア的思考に向かっていることを明らかにしている。