比喩としての畸形

◆澁澤
ジョルジュ・バタイユ:比喩としての奇形について」
『ドキュマン』における奇形のイメージについて書かれたエッセイ。澁澤はこのエッセイを三島との逸話からはじめている。澁澤の家によく来てはコレクションを見せてもらっていた三島に、彼はフランス雑誌の奇形の図版を見せたが、三島はそれには、「ああ、気持ち悪い。僕は残酷は大好きだけれども、畸形はとても駄目だ。」と言う。(こうした三島の生理的反発に対して、澁澤は、三島の倫理的道徳的な性格から、彼のバタイユ/サド解釈がある独我論的なものではないかと指摘しているここで澁澤は三島を批判しているわけではないが、三島をシュルレアリスム的なイデアリズムと多少なりとも重ね合わせているのではないかと思う)。
三島と対照的に、澁澤は、こうした畸形イメージが比喩として存在する限り、魅力的なものとして捉えることができると言う。
別のエッセイで以下のように述べている。

もともと私には、歴史よりも神話を、観念よりもイメージを、抽象的観念よりも象徴を、そしてハーバード・リード風に言えば、「イデア」よりも「イコン」を好む先天的な傾向があって、…
                          「魔的なものの復活」

澁澤のエロティシズムとは、まさに「観念よりもイメージ」というように、まさに具体的な対象物から始まるのであり、それは三島と決定的に違うところ。