サド/けっこう仮面

マルキ・ド・サドについて読み返している。
『ソドムの百二十日』や『悪徳の栄え』を読めば明らかなように、サドの物語には、他者性というのものがほとんど感じられない。『ソドムの百二十日』は場内で行われる残酷な行為であるし、『悪徳の栄え』は、貴族階級の中でのみ行われる行為であり、そこには社会性は存在していない。そのため、サド自身は、反道徳的なその残酷な行為自体には、快楽を求めていないように思う。サドは善に対して残虐性を支持し、そこに合理性を与えたといわれるが、それは作家サド自身が独房の中で生み出す想像力のなかでの問題である。だからこそ、『ソドムの百二十日』では、行為よりも「語り」こそが重要なものになる。またそのため、サドの快楽とは、非人間的・動物的な快楽ではなく、厳密に人間的で高尚なものでなければならない。
◆おっぴろげけっこう仮面 2 (SPコミックス)
永井豪の「けっこう仮面」を読んでみた。月光仮面のパロデで、ご存知のように顔を隠して体は裸。必殺技は「おっぴろげ〜」といって大また開きで股間を突つける。この物語で、けっこう仮面のまなざしは常に一方向的。彼女は、自分の顔を隠し男性のまなざしを拒むことで、自分の裸や陰部を見せつけることに抵抗を感じなくなる。ここでは顔が性器と同じ機能を果たしており、顔を見られることに羞恥心を感じるのであり、つまりそれはまなざしを向けられることへの恐怖なのである。そのため、男性が性器を見せつけ、まなざしが向けられると攻撃(羞恥心)を受けてしまう。そういえば、乱歩の「人間椅子」もよく似た物語だと思う。は醜悪な顔をしているため社会から隔絶し、不幸な人生を送っていた主人公(椅子職人)は、椅子もぐり、「顔を隠すこと」で他者との接触を可能にする。