バタイユのエロティシズムは本当にエロいのか?

◆京都セーカ大で授業をしてきました。
18時からだと思ってたら、17時30分からだったので少し焦ってしまった。
今回は原稿を用意したが、原稿があったらあったで不便なことも起こった。できればないほうがいいと思う。論文的な文書で書いたので授業は、途中でつっこまずにはおれないほど、だらだらしたものになってしまった。もう少しコンパクトにまとめていくつかヤマを作る必要があったと反省。
究極的な質問として、バタイユのエロティシズムというのは、実は性的なエロティックさが元になっているのではないかというのがありましたが、これに対してはきちんと答えられませんでした。よく引用される冒頭の部分「エロティシズムとは死に至るまで生を讃えること」とあるように、バタイユにとってエロティシズムとは、性以上に死と関わっていると思うのですが、それではではなぜ「エロティシズム」という言葉を用いたのかは説明できない。これについてはもっと考える必要があるように思います。たんに死だけで説明してしまっては意味がない。バタイユにとって死と性とはある部分では共通しているのですが、当然同じものではないわけで、より肉体的な体験としての性的な行為こそが彼の思想にとって重要な役割を果たしたとも考えることができるかもしれない。バタイユのエロティシズムをもっとエロく語ること。これが今後の課題。

授業の内容としては、まずバタイユにとってエロティシズムと死の関係は、第一にキリスト教と関わっており、そのキリスト教的な合理主義から如何にして逃れるのかというのが彼の議論の出発点。そこで彼はヘーゲルの理論、つまり絶対知を批判するのですが、このヘーゲル哲学もやっぱりキリスト教的な合理性に基づいているよね、というのが島本先生の非常にコンパクトなまとめ。しかし私が注目したのは、バタイユの批判の仕方が、決してたんにキリスト教を否定するというのではなく、それを模倣しながらもある種それをパロディ化することによって行ったのではないかということ。というのも、単なる否定は、その論理の裏返しになってしまい、最終的にはキリスト教と同じく新たな権威的な一神教的な宗教(バタイユ的な世界)を構築することになってしまう。つまり、『内的体験』においてバタイユは自分が神秘主義者であるといいながらも、またそうではないと言っているように、彼は自らを一方でキリスト教的なドグマに習いながらも、それをずらしていくことによってキリスト教を批判する。
バタイユはそれを小説『マダム・エドワルダ』に描いたような卑猥性によって、あるいは中国の処刑写真によって、キリスト教批判を行ったんだというのが主張なのですが、そのあたりがまだまだ説明不足でした。まずこの物語のなかで、マダム・エドワルダは「私は神だ」と述べるように神=キリストとして、つまり娼婦としてのキリストとして描かれています。その「聖なる存在」としての神の「陰部=俗なる部分」を見るというのが、この場面でバタイユが表現しようとしたことです。言い換えると、バタイユは、聖なるものと卑猥なもの、つまり聖と俗の関係をこの物語の中で連想させ、結び付けようとしたのです。それは、中国の処刑写真を見るときのバタイユの思考の中にもあったものです。中国人処刑囚は、バタイユにとって、キリストの磔刑のイメージと同じものとして写ったのではないかというのが今回の僕の発表の内容でした。

エロティシズム (ちくま学芸文庫)

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マダム・エドワルダ/目玉の話 (光文社古典新訳文庫)

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エロスの涙 (ちくま学芸文庫)

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