peuples exposes

国民たちがさらされてる。「メディアの時代の」助けによって、こうした命題が語ろうとしているのは、国民たちは今日かつてないほど互いに目に見えるようになっているということである。国民たちとはあらゆるドキュメンタリーの対象、あらゆる観光事業の対象、商業的市場の対象、はたまた、あらゆるありえそうで考えつきそうなテレビ的現実の対象ではないのか?また同様に、こうした言葉によって、国民たちは今日、「民主主義の勝利」も加わって、かつてよりもよりよく「表象されてる」と、示すことができるであろうと人々は望んでいる。しかしながら、まさしく全く反対のことが問題なのである。つまり、国民たちがさらされているというのは、まさに彼らが自分たちの――政治的、美学的――表象に脅かされている、すなわち頻繁に起こりうることのように、自分たちの存在そのものに脅かされているというその意味においてである。国民たちは何よりも、消滅するためにさらされているのである。こうした絶えざる驚異の状態のなかで何をすることができるのか?国民たちが消滅することなく、自ら自分自身にさらすためにはどうすればよいのか?国民たちが出現し、形を持つためにはどうすればいいのか?
Chimères, n° 66/67, 'Morts ou vifs', 2008

今期のディディのセミネールは、これまでは表象されえなかった国民たちが様々なメディアを通じて可視化されていく彼らの身体的・形象的表象の問題。それはまさに国民の姿そのものであるが、またそれは同時に、政治的、美学的表象に自らをさらすことになる。彼はこうした国民の共同体の矛盾した表象を映画、絵画、写真などの作品を通して見ていくことによって、如何にして国民が政治的な身体に陥ることなく自らの身体に形象を与えることができるのかということを問う。

http://ouvrir.le.cinema.free.fr/pages/reperes/prisnot/GDH0809/memoire4.html

イメージについての辞典が2006年には刊行されていた。
Dictionnaire Mondial des Images
http://www.nouveau-monde.net/livre/?GCOI=84736100869150&fa=description