ソンタグ『写真論』1

shirime2005-05-05

ソンタグ写真論』を半分ほど読む。
ソンタグアーバスの写真に対する批評は結構面白い。(アーバスの写真http://www.masters-of-photography.com/A/arbus/arbus.html)
ソンタグはまず写真を「偽りの現在[pseudo-presense]でもあり、不在の徴し[a token of absence]でもある」ものだとする。人はそれによってあらゆる出来事の意味を平均化し「もうひとつの現実と接触」して、恐ろしいものや残虐なものに慣れることができるようになる。しかしそれは、「自我の開放ではなく、自我からの控除、つまり恐ろしいものへのいい加減な慣れが疎外を助長し、現実生活に反応しにくくさせるのである。」(48)簡単に言うと、人々は、写真を持つことによって、自分の経験よりも、写真におさめられた経験の方が自分本来の現実や体験とみなしてしまうようになったということ。
しかしソンタグは、写真にもうひとつの可能性をみている。
その例として、ダイアン・アーバスの写真を挙げる。

つまり、彼女の写真は見る者が被写体から疎遠でいることを許さないということである。(40)

アーバスの写真は、ある意味グロテスクで苦痛を与えるような写真ということができるが、決してその写真は、私たちを慣れさせるものではない。彼女はほとんど自己や戦争や飢餓の写真を撮ることなく、いつもと変らない日常生活のなかで撮影し続けた。その日常生活の中で彼女は、「変った」人を撮り続けた。アーバスは、日常生活にあるゾッとするもの、醜いもの、恐ろしいものを一度受け入れ、その日常性をカメラにおさめていったのである。つまりアーバスは、あえて意味の平均化された日常生活のなかに入り込み、それを当然のものとして受け入れることによって、そのような日常世界の中に「他にも世界があるということ」を示そうとした、ということができるのではないだろうか。
このような文脈で、ソンタグは<ショック>に対して以下のように述べている。

写真は何か目新しいものを見させている限りはショックを与える。(27)

結局アーバスの写真は、見る者を絶えず引き離さず新しい世界を与え続ける、ある意味<ショック>写真ということができるだろう、っていうのが僕の感想。
→こんな感じで、バタイユやボワファールを論じれたら最高!!(足の親指の写真が<ショック写真>とはいえないものか?)・・・。後バルトの<ショック写真>も何とかするべ。

■おまけ。ラルティーグの写真が50枚ほど見れる。(アーバスと対比させられていた競馬場の女性写真。)
http://www.houkgallery.com/imprintsofjoy556.html

■後思い出した。明日は学校だった。予習忘れてた。