二本見る。

降霊 ~KOUREI~ [DVD]

降霊 ~KOUREI~ [DVD]

驚くほど怖くないホラー映画だった。むしろ、レストランを出て行く幽霊の動きのほうがよっぽど怖かった。後役所広司の顔も。それともうひとつ。多くの場合画面の背景としてブレた姿で登場する幽霊が、画面の「中に」侵入してくるシーンが一度だけある。そこで幽霊は役所に接近し、彼の体に触れる。だがこの映画では幽霊の現前化と物語がなにも関係なかった(『女優霊』の場合は、幽霊の現前化によって物語が終わる)。何かが起こるのかと思ったが何も起こらなかった。あのシーンの意味がよくわからなかった。
夜と霧 [DVD]

夜と霧 [DVD]

アラン・レネの初期ドキュメンタリー作品。『ショアー』とオープニングがよく似たこの映画は、ある種の物語性(時間性)があるように思う。これは『ショアー』にはない部分。一方は、過去という時間に断片的ながらもアクセスし、他方は、そうした過去へと回帰することなく、(映画内での)現在の時間のみを強調する。そうした彼らの歴史観は『夜と霧』は30分という時間の中に時間性を組み込み、『ショアー』は8時間という時間の中に無時間的な時間(つまり表象不可能という意味で)を展開する、というまったく対照的な映画時間に繁栄されているように思った。


■読書会
大阪のホテルで読書会。召集をかけた自分が一番遅れてしまい申し訳なく思う。反省します。それはさておき、今日はキリストの聖顔布の話から、イエスの身体の発作的な動きまで。ここでユベルマンが言いたいのは、恐らく、距離をもってイメージを見るというこが前提にある。前回までの話では、対象に可能な限り接近し、染みのある一点から、初め、それを形象可能性から認識可能性へと高める(止揚)。それによって、キリストの身体の部分とその物語を(福音)を基にして辿る。
だが今度はその対象を距離を置いて見ること。つまり先に同定した対象をひとつの「地」として捉える。そうすることによって個々の断片をひとつのイメージ=キリストの身体の位置(プロポーション)を捉え、そこからさらにその受難の状況までおも推論することができるようになるということ。この発展には、二次元的な対象から三次元的な対象への飛躍があり、また福音書に書かれていること以上のことがそこから導き出されてしまっている。
■エッセンシャルペインティングと小川信冶
秋ということで美術館へ。
エッセンシャルペインティングは、ほぼすべてのセクションが同じような空間に分割され、ほとんど差異のないように均等に配置してされていた。またキャプションなども端に小さく置かれていたため、絵画のみをじっくりと見るように指示されていたように思う。ちょっと豪華すぎで数が多かったようにも思ったが。その中で気になったのは、フランス生まれのベルナール・フリズ。彼の作品に描かれている肌理はまったく質感がなく平面的であるにもかかわらず、その平面性に歪みを加えることによって、奇妙な立体感が生まれていた。
小川の作品の「干渉世界」では、層状に世界が重ねられ、それが次々と剥がされ/繋がれていく様は、フォトモンタージュとも考えることができる。モンタージュとはそもそもこのようにして世界を断片化(層状化)し、それを貼り付け/引き剥がしていく作業なのであろう。それが三枚のスクリーンで展開されているために、何か気持ち悪かった。

中ハシ克シゲ展 ZEROs−連鎖する記憶−
に行ってまいります。