身体の脱構築

■問題なのは、
バタイユも含めてシュルレアリストたちが、合理主義的社会と呼ばれるものを乗り越えるために、その本質的な役割を果たした人間的身体を破壊したというときに、単に理想的身体→破壊という一方的な議論がほとんどであるということ。多重露光フレーミングによる断片化、主体の複数化、すべてが複合化していくが、どのように脱構築されていくかを見極めなければならない。そこにバタイユシュルレアリスム(ブルトン)との大きな差異を見出すことができるように思う。