横浜写真/仮面写真

■科研〜横浜写真。
問題だったのは、18世紀人類学によるアフリカなどのポートレイと19世紀以降の人類学(例えば日本など)のそれでは、撮影のされ方がまったく違うということ。その一方は、完全に科学的な方法によって、非西洋人の身体の測定を行っている。それは、ベルティオンの犯罪写真的なまなざしに似ている。それに対して、東洋の写真の場合は、寝てる姿とか褌の後姿など、少し遠慮ぎみだった(これはあくまで感想。同じような写真もあるかもしれないので、それは明日にでも聞いてみよう)。こう考えると、19世紀オリエンタリズムと19世紀のそれとが同じものではないといわれるように、「他者」という言葉も、それぞれの文脈によってある程度差異があったということができるのではないだろうか。すべてを「他者」という言葉に換言してしまうのは問題だと思う。
■レリス
シュルレアリスム写真にとって、仮面やマネキンなどの道具は、意識による抑圧を取り払い、人間の個性を代替する装置として用いられた。『ドキュマン』1930年第7号には、ミシェル・レリスの論文とともに、「皮のマスク」に覆われて悶えている女性の肖像写真が掲載されている。
 
そこでレリスは、この写真をもとにして、イスラムのある青年の話を紹介している。 それは、自分の顔と同じ顔の神の顔に直面したことで、恐怖におびえる青年の物語である。この二重化された自己の物語から、レリスは、顔を覆い隠す、あるいは否定することが如何に人間の本来の姿を示すことなのかを指摘している。

「女の肉体は、顔の不在によりいちだんと壮麗さを増し、女自身をよりいっそう真実に近く、しかもいっそう捉え難い存在にして、しだいに一種の漠とした魅惑的、神秘的な物自体へと変容させていく」

レリスが主張するように、仮面に覆われることによって、この女性の頭は象徴的に破壊され、その女性が持つ個性と知性は完全に否定される。それはディディ=ユベルマンが指摘するように、顔面がその背後にある頭蓋にとっては、ひとつの仮面に過ぎなかったという事実を明らかにするものなのである。 そのため、この苦痛にあえぐ女性の姿は、人間のヴェールを剥ぎ取られ、神秘的で官能的な存在となる。その女性を前にした男性は、己の顔が神の顔に直面したかのように、その肉体に感嘆し、自らの自己をも喪失するのである。レリスはそのような人間の顔を、ヘーゲル哲学を皮肉って「死せる頭(caput mortuum)」と呼んだ。