バタイユ・ブランショ研究会

shirime2007-05-21

思いもかけず、
バタイユ・ブランショ研究会なるものに行ってきました。
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場所は明治大学の「自由の塔」の一室。高いところで低い話をするのも悪くない。
バタイユの「遊び」を教育学に結びつけたものと、「内的体験」を記号論的、生命システム論的に分析したものと、ラスコーの壁画論の三つ。
以下感想など。一人目の発表は、私自身教育学(幼児)というものをほとんど知らないのもあるが、なぜバタイユなのかということが第一の疑問。もちろん子どもの遊びにおいて、「遊びを遊ぶ」という親からの一方通行的な子どもの行為ではなく、子ども自らの純粋な遊びが重要視されなければならないということはわかる。だが、それをバタイユの「蕩尽」だの「至高性」などの議論に重ねてもまるで意味がないように思う。ついでに言えば、子どもとはそれほど単純ではないし、むしろ逆に、遊びを通して子ども社会でのルールを学ぶのは当然のことと考えなければならないのではないか?
二人目の発表は、バタイユの「内的体験」を他者との関係性の中で生じる意味生成の場として捉えようとするその出発点はよかったように思う。ただその方法がまずかった。バルトやパースの議論、あるいは生命システム論を組み込むことで、逆にバタイユ自体の趣向がまったく見えてこなかったのは残念。さらに詳細なテクスト分析が必要。それと、前者二人の発表において気になったのは、あまりに<バタイユ的なもの>を追求しすぎて、バタイユの理論に厳密性を求めすぎている。むしろ実際彼の理論において問題なのは、その理論の緩さなのに…。
三人目の発表は、時間もなかったのでもう少し詳しく聞きたかった。以下理解した範囲で。バタイユのラスコー論は、一方で労働の目的性を乗り越える至高性の次元へ至るものとしてあるにもかかわらず、その芸術の役割自体が人間的行為でしかない、という矛盾したもとなっている。だがそれ以上にバタイユがこのラスコーの壁画で問題にしたのは、その歴史の中で何度も人間によって塗り重ねられた痕跡としてのイメージから現実として感覚そのものである。つまり、バタイユは自らラスコーの壁画を自らの議論に重ねつつも、そのイメージから与えられる「感覚的現実の創造」を理論を越えるものとして捉えようとした。バタイユが「オペラシオンoperation」という言葉を用いたのは、まさにこの意味においてではないのか。私としては、そのイメージと対話することによって組み替えられるバタイユ論のプロセスを詳細に議論していく必要があるように思った。